議論には、最低限の教養が必要。

 

今回のタイトルは、完全に他の方のコメントそのままです。

先日、TV「アナザースカイ」の堀江貴文さんのコメントで、そのまましっくり100%共感できたコメントです。

 

自分がどれだけ無欲で、どれだけお金に興味がなくて、純粋に議論をしてもどうしても理解をしてくれない。
一生懸命説明をしても、「何か裏があるのではないか」と疑われてしまう。

これに対して話されたのが、

「議論をするには、最低限の教養が必要」

というコメントです。

 

一見、過激に感じるこの言葉ですが、実に真をついており、もっとたくさんの人が痛感しなくてはならない当たり前のことだと感じます。

 

例えば、数学の話をするのに、算数を理解していいない人と議論ができるでしょうか。

政治家と官僚の違いを説明できない人と、政治の話ができるでしょうか。

企業の会計を理解していない人と、財務戦略について議論ができますでしょうか。

スマホゲームの面白さを理解していない人と、スマホゲーム開発の議論ができますでしょうか。

 

もちろん、すべてできません。
当たり前ですが、何かを議論するためには、必要最低限の情報、即ち教養は、絶対に必要になるのです。

 

しかし、世間では、よく理解していないことについて、色々と喋るのが当然のように扱われています。
TVで専門的な分野に対して、一般人のタレントが好き勝手話す映像を垂れ流しているからかもしれません。

 

築地市場の汚染問題を掲げるのに、「基準値」について理解していない人はとても多いです。

財務省の不手際で大臣に辞職を迫るのに、官僚と大臣の関係も理解していない人もとても多いです。

「私はビットコインを持っていません」と平気で言う人が、専門家としてTVに出ていたりしています。

 

このように、大前提の教養を持たないでなされる議論は、すべてが井戸端会議です。
議論ではなく、ただの雑談で、残念ながら何の意味も持ちません。

 

「議論をするには、最低限の教養が必要」

このごくごく当たり前のフラットなフレーズが、どうして「過激」「上から目線」と受け取られるのか、不思議で仕方ありません。

 

一つ思うのは、世間では「聞く」ことで「相手が答えてくれる」という構図が当たり前な風潮になっていると感じます。

「分からないことがあれば、誰かが教えてくれる」
「聞いても教えてくれないなんて、なんて奴だ」

中には、聞いて答えが自分の思った通りのものではないと、不満そうな態度をとる人もいます。

 

同じようなコメントで、落合陽一さんが確かWeeklyOchiaiで何気なく話した言葉で、

「スペックの低い奴が、スペックの高い奴に偉そうにするな」

が、ゼミのルールだと話していて、これもしっくり共感しました。

やはり、ゼミでもわからない人がわかる人に教えを乞うているのに、聞く方が偉そうな時がある、との話題時のコメントだったと記憶しています。

 

でも、これも「目上の人を敬え」という、極めて礼儀として当たり前の話なのですが、過激な発言として捉えられてしまいます。

私はそれは、とても甘えた考え方だと感じてしまいます。

 

恐らく、TVで池上彰氏が丁寧に説明してくれて、水たまりのような浅い知識で納得をしている映像を見ているからでしょう。

「大丈夫。わからなければ誰かが優しく教えてくれる」

そんな意識を生んでしまうため、あの手の浅い情報番組は返って悪影響なのではないかと感じています。

 

今の時代は、インターネットを使えば、誰だって学校に行かなくても勉強することができます。
むしろ、勉強できないテーマなんて、存在しないでしょう。

昔では、確かに「教材」がなかったため、学校などに通って「教材」を得る必要がありました。
そのため、お金がない、近くに学校がない、などの理由で、勉強ができなかったことは確かにあったかもしれません。

 

しかし、今では勉強なんてやろうと思えば、いつだってお金もなくできるのです。
極端な話、「教養を得る」という目的だけを考えた場合、学校なんていかなくても問題なんてないと思います。

つまり、「議論したいと思うほど興味がある」テーマであるのに、「大前提となる教養がない」ということは、「怠惰」以外の何物でもありません。
少なくとも、相手にはそう思われてしまっても、弁明の余地はないでしょう。

 

今では「学校」の持つ意味は変わっていると思います。
現在の学校が持つ価値は、「コミュニティ」か「動機」だと思います。

人間の人格は、もともと生まれ持って形成されたものではなく、環境が形成するものだと思います。
良い人と触れ合えば良い影響を受け、悪い人と触れ合えば悪い影響を受けてしまいます。

また、一人の頭で考えるより、外部の人と触れ合うことでより多くの課題と触れることにもなり、理解も深まります。
このような、「コミュニティに属する」ことが学校の価値になってきていると思います。
決して、「教養を得る」が、学校の価値ではありません。

 

また、人は生まれ持って怠惰な性格を持っていると思います。
生命体として、接種したエネルギーをできるだけ効率的に使うために活動量を減らすという本能があるのではと、勝手ながら思っています。(根拠なし)

勉強をした方がよい、と頭では理解しても、体はなかなか動かないのが人間というものです。
それを「勉強を習慣化する」という「動機」として、学校は良いツールではないかと思います。

 

少し話がそれましたので戻しますと、議論には大前提となる情報が必要で、その知識は誰でも手を伸ばせば届く距離にあるのです。

何も専門的になれ、という話ではありません。
「最低限の教養」です。

 

確かに、議論をするときに前提情報を教えてくれる人も多いです。
しかし、それは「当たり前」ではなく、「教えてくれる人が優しい」から教えてくれるだけです。

 

自分がいつまでも自らは調べずに、議論のたびに口をあんぐり開けて教えを待つことを繰り返していたとしたら、この人とは議論できないと諦められて、議論をしてもらえなくなる未来しかないと思います。
少なくとも、自分に対してはそのような危機感は持っていた方が良いと思います。

 

もし、「議論が噛み合わないな…」「なんでこの人は自分にはあの話をしてくれないのだろう」と思うことがあったら。

まずは、その原因は自分にあるのではと疑うことは大切でしょう。

 

人についてどうか思うより前に、そのテーマについて、まずはGoogleで検索するだけでも全然良いと思います。
反論に値するだけの知識をつければ、おのずと解決されると思うのです。

 

やはり、「最低限の教養」は、「意味のある議論」をするためには、絶対に必要です。

最後に、聞けば今すぐ知識をつけたくなる好きな言葉がありますので、記します。

 

「知識は人の所有物の中で最も偉大なるもの。
それは銀行に預けているお金よりずっと価値ある財産だ。

君が手に入れた知識は決して失うことも、誰かに盗まれることもない。
だから、可能な限り多くの知識を学び集めることが真の成功だ。」

ウィリアム・ギャン(投資家)

 

 

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